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[映画]「リメンバー・ミー」から考える宗教の儀式の意味

リメンバーミー 映画

日本に一時帰国した時、ANAの機内で、映画「リメンバー・ミー」を見ました。

最近祖父を亡くしたばかりで、死についていろいろ考えさせられたので、機内で一人うっかり涙ぐんでしまった…!

死後の世界の仕組み、生と死の堺を、現世を生きる私たち、死(肉体死)を恐れる私たちに希望を与えながら、うまく表現しているなぁ。

 

去年インドやチベットに行ってから、宗教とはなんぞや?というのをずっと考えていました。

なぜ人は宗教を持つのか、とか、宗教の儀式の意味とか。

この映画を見て、宗教という大きなくくりの中の、ほんの小さな一部分である「宗教の儀式」に対する自分なりの答えが出かけているので、忘れないようにブログに書いておきます。

無数にある宗教の儀式、ルール

宗教にはたくさんの儀式、ルールがある。

実用的なものから、形骸化してしまったものまで。

イスラム教ではお酒を飲んではいけないとか、豚肉を食べてはいけないとか。

カトリックでは同性愛が禁止とか。

無宗教国家と言われる日本だって子供が生まれたらお宮参りに行き、桃の節句、端午の節句で子供の成長を祈り、夏はお盆で寺の墓参りをし、ハロウィンでは仮装してバカ騒ぎ、クリスマスにツリーを飾り、お正月には神道である神社に初詣に行き、死ぬ時には仏教式にお寺のお墓に入る。

 

今まで宗教のことを考える時、なぜそれをするのか誰も考えなくなってしまった形骸化した儀式がやたら目について、宗教自体、好きになれないでいた。

特に日本で部分的に取り入れられて、商業的に踊らされている、エンターテイメントと化した宗教儀式が嫌いだった。(我々夫婦、それ故に挙式してないからね。)

現代社会において形骸化しているルールもあるのでは?

そんな宗教の、たくさんの儀式。

中には昔は理にかなっていたが、科学技術が発達した今でも守るべきなのか?というのは疑問が残るものも多い気がしている。

 

イスラム教が豚肉を食べないのも、おそらく昔豚肉を衛生的に保存し調理する方法がなく、豚肉を食べて体調が悪くなってしまった人がたくさんいたことからきているのではないかと想像する。

カトリックが同性愛を禁じていたのも、もしかすると当時は良い薬がなかったから、同性愛者の性交渉から派生した病気を恐れていたからだったのかもしれない。

これだけ科学が発達した21世紀。

当時恐れていたものは技術で解決できるものもきっと多くて、でも一見すごく正しそうな「伝統」という言葉が概念と文化を変えることにブレーキをかけている。

ここは信じている人が幸せである限り、まわりがとやかく言えることではないので、ここらへんで止めておく。

(日本のハロウィンだって、宗教としての意味を理解した上で本人たちが楽しんでて幸せなら、何も言わない。)

現代人の生活に寄り添った宗教儀式もある

遺影を飾る意味〜「リメンバー・ミー」から考える

リメンバー・ミー 祭壇

※画像引用:東洋経済オンライン

人が亡くなったら家の中に遺影を飾るということも、先祖代々飾ってきたから、とか、葬儀屋に用意するように言われるから、という理由でしていると思っていた。

形式になってしまっているのかなと思っていた。

 

映画「リメンバー・ミー」の中の設定で、年に一度、死者の日というのがある。

生の世界で家の祭壇に写真を飾ってもらえている死者のみが橋を渡って(日本風に言うと三途の川の里帰りバージョン?)生の世界に帰ってきて、子孫が元気に生きている様子をすぐそばで見ることができる。

 

私たちは「亡くなった人のことは一生忘れない」とか、「心の中にずっと生き続ける」、とかよく言うけれど、実際それができているかというと自信はない。(少なくとも私は。)

これだけ技術の発展で写真をデジタルデータで残せるようになり、バシバシ遠慮なく撮れるようになった今でも、日々自分のことでいっぱいいっぱいになり、亡くなった家族のことを思い出す時間は時が経つにつれて減っている気がする。お墓参り、最後に行ったのいつだっけ…??

これでもし仏壇の遺影やスマホの中の写真がなかったら、目のつくところに置いていなかったら、もっとはやく忘れてしまうような気がする。

 

人は、物理的な肉体死を経た後、生きている人の記憶から消えた時点で、完全な死を迎える。

だから亡くなった人を”死なせない”ために、思い出す、ということが大事なのだ。

写真を飾って、はい終わりではもちろんだめで、時々写真を見て、彼らのおかげで今の自分があることを思い出して感謝する、ということも、自分が豊かに生きていく上で必要なことのような気がする。

意味があるからこそ、仏壇であれ祭壇であれ、形は違えど、こうしてどの国でも、どの時代でも、ちゃんと受け継がれてきて、文化になっているんだな。

法事をする意味〜瀬戸内寂聴さんの本から考える

瀬戸内寂聴さんの、「寂聴あおぞら説法 切に生きる」という本の中で、寂聴さんは法事をする意味について、こう書かれている。

なぜ法事をするのでしょう。

これは人間が忘れっぽいから、忘れないためなのです。

亡くなった人の魂は、暗いお墓の中でじいっとしてはいないと、私は思います。いつも愛する人のところに来ているんです。

(略)

ですから、愛する人に死に別れた方は、できるだけ多く、その人を思い出してあげてください。愛する人の魂は死ねばあなたと一体になって、いつもあなたの中に住んでいます。

法事も、忙しい日常の中でちゃんと立ち止まって、故人を思い出すために必要な儀式なのだ。

遺影と一緒。

人が本当の意味で死なないように、みんなでちゃんと定期的に思い出しましょう、ということ。

四十九日の意味〜祖父の死から考える

最近日本で25年間同居していた祖父が亡くなったのだけど、亡くなった直後は家の中にまだ祖父がいる気がして、ちょっと怖かった。

洗面所で顔を洗っている時とかドライヤーで髪を乾かしている時、後ろに祖父が立っているんじゃないかとか、スリッパをパタパタさせて、部屋から出てくるんじゃないか、ってそんな気がしていた。

が、不思議と四十九日を過ぎたあたり(一時帰国して通夜、お葬式に出て、北京に帰って、四十九日でまた一時帰国したので、正確にはもしかしたら三十日かもしれないし四十五日かもしれない)からは家の中に祖父の気配を感じなくなった。

怖くなくなったのね。

仏教は、適当に四十九日という期間を設けたのではなく、多くの人の長年の経験から、人が自然に死を受け入れて前に進めるようになるちょうどいい期間はこれくらいかな、とだんだん四十九日になっていったのではないかと思う。

私は無宗教だけれども、なかなか人の心に自然に寄り添った、いい文化だな、なんて思った。

まとめ

何も考えずに、まわりもやっているから、先祖代々受け継がれてきたからといって妄信するのは良くないと私は思う。とりあえず形だけなぞるというのは芸がない。

けれど、これだけ科学が発達した21世紀にまで伝わり残っている儀式の中には、遺影や法事、四十九日のように、人々が納得して、あった方がいいよね、と続けていることも少なくないのだなと思った次第。

 

とりあえず、「リメンバー・ミー」はおすすめ。

肉体死が怖くなくなって、今の世界で人の心に残ることをたくさんしていきたい、と思える映画でした。

それでは今日はこの辺で!

再见ヽ('∀`○)ノ♡

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