武則天のお墓、乾陵に行ってきました。
武則天のドラマ《武媚娘传奇》を見て、長い時間かけて彼女の人生を追いかけたので、ずっと行きたかった場所なのです。
携程のツアーに参加
乾陵は西安から80kmほど離れているので自分たちで行くのはなかなか大変、ということで、ツアーに参加することにしました。
携程(C-Trip)で見つけた、このツアー▼
法门寺+乾陵+懿德太子墓一日游【好评爆款 专车专导 两人立减20赠永泰公主墓】
永泰公主墓,懿德太子墓博物馆,乾陵,法门寺に行けて、1人248元(約4,220円)でした。
ハワードジョンソンに泊まっていた私たちが指定された集合場所は、お隣のグランドパーク西安(西安君樂城堡酒店)。
▼朝の7:30集合。
ミニバスが来て、それに乗って他の人たちと合流して大型バスに乗って、いざ出発です。
▼ツアーガイドさんは杨さん。
みんなで杨导と呼んでいましたよ。
(※导游=ツアーガイドさん)
外国人の私たちにも聞き取りやすい標準的な中国語を喋ってくれます。
陕西省の田舎の方言を教えてくれたり、歌を歌ってくれたり、サービス精神旺盛!
バスに揺られてかれこれ2時間弱、乾陵に着きました。
永泰公主墓
まず見学したのは、永泰公主墓。
永泰公主は、唐の第3代皇帝高宗と武則天の孫娘で、第4代皇帝中宗(656 〜710年)の娘。
当時初の女性皇帝として君臨していた武則天は、それまでの男性の皇帝がしてきたように妾(武則天は女性なので男性の)を囲っていました。
孫娘の永泰公主は武則天の妾(男性)に対して批判をしたため、武則天の怒りをかい、彼女の夫と彼女のお兄さんと共に殺されてしまいました。
※叩き殺されること=杖杀 zhàng shā
▼彼女のお墓は地下にあります。
▼階段を降りていきます。
唐時代の女性の壁画がしっかり残っています。
唐の時代は豊満な女性が美しいとされた時代。
そしてドラマの衣装でも表現されていますが、胸元を大きく開けた服を着ていました。
シルクロードを通じた西の国との貿易で大きく栄えた唐の時代。
豪華な衣装に身を包んだ女性がたくさんいたんですね。
▼石碑が置いてあります。
この石碑には「永泰公主は難産のために亡くなった」と書いてあるそうです。
あれ、武則天に殺されたんじゃないの…??と思いながら先に進みます。
▼ここが永泰公主のお墓。一緒に殺されてしまっただんな様の遺体と一緒に入っています。
左側の棺の蓋が切れているのは、昔盗賊がここから中にあった副葬品を盗んだからだそう。
研究者の発掘もここから開けて始まりました。
研究者が調べてみたところ、永泰公主の骨盤の骨が広がっておらず、妊娠していたと考えるのは無理がある、という結論に至りました。
ではなぜ先程の石碑に難産で亡くなったと書いてあったのか?というと、ガイドさん曰く、彼女の父親である中宗が、彼女が「祖母である武則天に殺された」と書いてしまうと皇家の面子が丸つぶれになってしまう、ということから、難産が理由と記載したそう。
面子のために形に残る石碑に書いていても、武則天が殺したという本当の理由が人々に伝わってしまっているのは、お父さんも彼女も、ちょっとかわいそう…。
懿德太子墓
次に行ったのは懿德太子のお墓。
チケットは永泰公主のお墓と共通です。
懿德太子墓は、永泰公主と同じく高宗と武則天の孫で、中宗の長男。
永泰公主の事件で永泰公主と一緒に彼らの祖母である武則天によって殺されてしまいました。
お墓のつくりは永泰公主のものとほぼ一緒ですが、懿德太子のお墓の方が全長100.8mと規模も大きく豪華です。
▼壁画(レプリカ)
本物の壁画は乾陵博物館に移されて保管されています。
▼棺
この棺の中には2体の骨が入っています。
この懿德太子、亡くなった19歳の時、未婚だったそうで、あの世に行ってパートナーに困らないように、という理由で女性と一緒に埋められたそうです。(冥婚 mínghūnといいます。)
ガイドさんが、このお棺の蓋を触るとお金持ちになりますよ〜と言っていて(聞き取れなかったのだけど、何かの成語からきているようでした)、みんなで触りました。
そんなことが理由でお棺の蓋なんて触っていいんだろうか、懿德太子さん、なんかごめんなさいと思いながら触りました(笑)
乾陵
再びバスに乗って乾陵に向かいます。
▲バスの窓から見えてきました。丘のようになっているところが乾陵です。
着きましたー!チケットは、永泰公主墓と懿德太子墓と共通です。
司马神道
長さ575.8メートル、幅11メートルのお墓へ向かう道。
富平墨石という石を使っていて、国が150万元(約2,500万円)投資して造られました。
石狮
日本語でいう狛犬。
普通は、ひとつは口を閉じているメスと、口を大きく開けて爪を立てているオスが対になっているのだけど、乾陵の石狮は、2体とも口を開けているオス。
なぜかというと、ここに眠っているのは高宗と武則天、2人の皇帝だから。
武則天は女性だけれど、皇帝になったのだから、他の男性の皇帝と同じように扱ってほしい、ということだったのですね。
武則天は今から1500年以上も前に男女平等を行動で示した人なのです。
無字碑
ドラマ《武媚娘传奇》を見てからどうしても見たかったのがこれ、無字碑!!ドラマのエンディング曲もタイトルは《无字碑》だしね。
普通は皇帝が亡くなった後は、肩書や功績などを書いた石碑を置くのが習わしだったのだけれど、武則天の石碑だけは何も書いていないのです。
なぜ何も書かれていないのか?いろいろな説があります。
・武則天が遺言で、「自分の功績は後世の人が決めるものだから文字は入れるな」と言った。
・武則天が成し遂げたことがたくさんありすぎて書ききれなかった。
・石碑を立てた武則天の息子中宗は、武則天は皇后でもあり皇帝でも母でもあり、前例がないので肩書をどう書いていいかわからなかった。
・中宗は、息子(懿德太子)と娘(永泰公主)を武則天に殺されているので、複雑な心情から彼女の功績を書けなかった。
などなど。
▼実際よく見てみると文字が彫られていますが、これは後の宋、元、明の文人たちが書き残したものだそう。
中には契丹族の文字も見られます。
高さはなんと8.3メートル、重さ98.84トン。
高く昇る龍の絵が彫ってあります。
高宗の石碑
無字碑の反対側にあるのは、高宗の石碑。
皇后の武則天が文章を決めて、中宗が書いたそう。
六十一蕃臣
辺境の少数民族の像。彼らは唐王朝の政府の官吏でもありました。
もともとは首があったそうなのだけど、今はありません。
誰が首をとったのかは諸説あるそうです。
陵墓
いよいよ高宗と武則天が眠っている陵墓へ。
始皇帝の陵墓と同じく、発掘はされていません。発掘する予定もないそう。
当時のものをだめにせずに保存できる技術が見つかったら…どんなものが出てくるのか、楽しみです。
小高い丘を上っていきます。
▼途中の景色。
▼いかに広いかがわかります。
感想
ドラマ《武媚娘传奇》を見て、中国一の悪女と言われる武則天も、皇后になったのも皇帝になったのも彼女は望んでいなかったやむを得ない事情が続いた結果なんだな、と思っていたのだけど、永泰公主や懿德太子のお墓を見て、彼らが武則天に殺されたという話を聞いたりすると、血の繋がった孫を殺してしまうくらいだから、やっぱり自分の思う通りにするために冷血に、厳しい判断をしていたんだろうなぁと思いました。(ドラマは綺麗に描かれすぎてますね。)
でも。それまでも、彼女の後の皇帝たちも、息子を殺したり兄弟殺したりなんてことは当たり前にしていたわけで。むしろそうすることで地位を確立して、有能とすら言われていたわけで。
彼女が女性だから、残酷!悪女!と言われてしまうのはなんだか違うなぁと思いましたよ。
今よりも1500年も前の、男尊女卑が常識の世の中で、女の自分でも皇帝になれる、と常識をひっくり返した彼女は、悪女と言われようがやっぱり格好いい。
彼女のように、自分の限界を自分で作らずに、常識に縛られずに、自分の思うように生きたいものだな、と思いました。
▼ドラマ、長いけど見始めたらやめられないです。おすすめ。
観光情報
●営業時間:
3〜11月:8:00〜19:00
12〜2月:8:00〜18:00
●チケット:(乾陵・永泰公主墓・懿德太子墓博物馆共通チケット)
3〜11月:122元
12〜2月:82元
●電話番号:0910-3551-0222
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