兵馬俑を見た後、秦始皇帝陵博物院に行きました。
兵馬俑と同じチケット(150元)で入れます。
兵馬俑から始皇帝陵墓までは無料シャトルバスで15分ほど。
▼無料シャトルバス乗り場
▼バスに乗り込みます。15分ほどなので立ちでも大丈夫。
バスから降りて、秦始皇帝陵博物院の入口に向かいます。
途中屋台がたくさん出ていて、いい匂いがしていました。
▲中国あるあるの、ペアルックの二人。変な柄のTシャツとかじゃないのでセンスが良く見える(笑)
秦始皇帝陵博物院
秦の始皇帝の陵墓があります。
始皇帝は皇帝即位後から埋葬地である骊山に陵墓用の穴を掘り始めて、天下統一後は70万人を動員して王墓の造営を行ったそうです。
1987年に世界遺産に登録されました。
▼入口着きました!兵馬俑と同じチケットを使います。
▼さっきのペアルックの彼女さん!たまたま写り込んでた〜!
▼とにかく広い!陵墓の周りを一周します。
陵墓は、今は当時のものをきちんと保存する技術がないため、発掘されていません。
小高い丘になっていて、その周りを一周ぐるっと歩きます。
▼陵墓の正面。
▼綺麗な花が咲いていました。
陵墓、本当に自然が豊かでした。
9901陪葬坑
始皇帝の陵墓は発掘されていませんが、周りにある陪葬品は一部発掘されています。
K9901陪葬坑とK0006陪葬坑の2つが公開中です。
▼私たちはK9901陪葬坑に行ってみました。
▼中はこんな感じ。
以下、発掘されたもの。
銅鼎
西南の棚木の上に見つかりました。
高さは61cm、内側の直径は65.5cm、外側の直径は71cm、腹部の深さは34cm、厚さは2cm、
重さ212kgにも及びます。発掘されたものの中で一番重いです。
兵器
・铜镞(銅の矢じり)が8つ
・石甲片(よろい)が14
・铁矛(鉄のほこ)が1つ
車馬
・马蹄(馬の蹄)4つ
・石の马缰饰(手綱の飾り)1つ。
陶俑
・陶俑11体(修復済みは6体のみ)
大きさはそれぞれ違います。服飾は比較的簡単で、上半身は裸、下半身は長いスカートのようなものを履いています。(当時の男性も長いスカートのような服装でした。)
雑器
・土陶盆1つ
・板瓦2つ
・金属が溶けたようなもの1つ
・石の球状のもの1つ
・铁凿(平ののみ)1つ
・銅の平な棒 1つ
棚木
もともとK9901陪葬坑は棚木で覆われていました。
自然に腐ったり人に燃やされて今はほとんど残っていません。
長さは4.5メートルから5メートル、幅は0.3〜0.4メートルほどの大きさです。
鑑定の結果、木の種類は杉と判明しました。
秦の始皇帝
紀元前259年〜紀元前210年。
在位期間は紀元前246年〜紀元前221年。
▼流れを理解するには、清の始皇帝がモデルのキングダムがおすすめ!
生まれ
秦の公子であった父、子楚が当時、休戦協定で人質として趙へ送られており、その時に生まれました。名前は政。
母親は子楚が裕福な商人 呂不韋から譲り受けた妾、趙姫。
(呂不韋から譲り受けた時には趙姫はもう既に妊娠していたという説もあるそう。ってことは始皇帝は商人 呂不韋の息子だった…!?)
人質だった政(始皇帝)の父、子楚は番人を買収してうまく秦に脱出。政(始皇帝)は母親と趙に置き去りとなりました。何度も殺されそうになって、この時の体験が後の政(始皇帝)に怜悧な観察力を与えた、と言われているそう。
呂不韋の助けで父親が太子に
前250年に昭襄王が没し、安国君が孝文王として即位すると、呂不韋が工作し、子楚が太子になりました。
孝文王はわずか在位3日で亡くなり、紀元前249年に子楚が荘襄王として即位。
政(始皇帝)と母趙姫は秦に戻りました。
子楚(荘襄王)を助けた呂不韋は丞相に任命されます。
皇帝に即位
前246年、荘襄王(政・始皇帝の父、子楚)は在位3年という短い期間で死去。
13歳の政(始皇帝)が後を継ぐことに。
まだ幼かったために、呂不韋が相国として始皇帝を補佐。
(呂不韋は太后となった趙姫とまだ関係があったそう…!!呂不韋は、趙姫との関係がばれるのを恐れ、太后のために別の愛人を用意します。去勢した文官と嘘をついてその愛人を入宮させたのです。が、太后とその新しい愛人の間にできた子供の存在が始皇帝にばれてしまい、後にそれが理由で呂不韋は罷免、追放に、その後自殺してしまいます。)
成し遂げたこと
中国統一
親政を始め、強力な軍隊をつくり、韓、趙、燕、魏、楚、斉を滅ぼし、紀元前221年に中国を統一。
(中国時代劇を見ていてずっと気になっていたのですが、皇帝の一人称が「寡人」→「朕」に変わったのは彼からだそう。)
政治
秦に制服された韓、趙、燕、魏、楚、斉は独立国ではなくなり、代わりに36の郡が置かれました。
(後に48に増える)郡県制と呼びます。
郡の中には県、県の中には郷、さらに里と小さな行政単位が作られました。
全国で法律を統一。
従来の封建制度は撤廃され、家柄に関係なく能力のある人が登用されるようになりました。
経済
度量衡(ものの単位)、通貨、文字などを統一し、経済の一体化を図りました。
中国時代劇《芈月传》でも、度量衡統一の描写がありました。
(芈月は始皇帝の高祖母(祖父の祖母))
建築
咸陽と阿房宮、始皇帝陵 (驪山)、万里の長城など大規模な工事を行いました。
多くの使役が必要だったため、人民の不満は大きくなりました。
病気で亡くなる
さまざまな場所に巡遊に行っていた始皇帝は平原津で病気になり、亡くなりました。
2代目、3代目皇帝は劉邦、項羽に破られる
紀元前210年、咸陽に戻った20歳の胡亥が即位し二世皇帝に。
前207年には反秦の反乱の一つの勢力である劉邦率いる軍に武関を破られます。
二世皇帝の兄の子、子嬰は皇帝ではなく秦王に即位しましたが、わずか46日後に劉邦に降伏し、項羽に殺害されました。
秦は3代15年で滅びたのです。
この後、漢の時代、三国時代と続いていきます。
まとめ
500年以上続いた戦乱の世をおさめ、7つの国を統一した偉大な始皇帝。
もともと由緒正しき血筋、というわけではないのにびっくりしましたが、つらい幼少期を乗り越えて反骨精神で強くなっていったんだなぁと妄想していました。
巨大なお墓を前にすると、その権力の大きさにただただ驚くばかり。
たくさんの人員とお金を投入して作り上げたのは火を見るより明らか。
これはインドのタージマハルやエジプトのピラミッドにも共通しているけれど、贅沢とは、多くの人の労働と犠牲によって成り立っているわけで、「わーすごいー!」で終わってはいけないなぁと感じましたよ。
建設に関わったひとりひとりの名前は残っていないけれど、この巨大な陵墓は2000年以上経った今でもたくさんの人に見てもらえていますよ、本当にお疲れ様でした!って陵墓に向かって叫びたくなりました。
(前回から、西安で叫びたくなりすぎ。笑)
観光情報
●営業時間:
・3月16日〜11月15日:8:30〜19:00
・11月16日〜3月15日:8:30〜18:30
※入場券販売は閉館2時間前まで、入場は閉館25分前まで
●チケット料金:
・3〜11月:150元
・12〜2月:120元
おまけ
始皇帝のことを理解するには、清の始皇帝がモデルのキングダムを読むのがおすすめです!
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